王道ストーリー、定番のテクニックはウケる。免疫のない人は崇拝にまで至る。逆にある程度読んで(見て)しまうと、あの作品の焼き直しだな、とカテゴライズしてしまう。
面白さではなく、免疫がないから感動していたのか。感動とは無知の恩恵だったのか。過去の作品を忘れればいいのか。そんな退廃的な行為だったのか、フィクションを読む(見る)ということは。
評論家になり、構造化して、ここは似ているけど、ここが違うなどと、切り分けてみせればいいのか。オタク的に細部を穿ち、弁を立てて見せればいいのか。見るべきところがこんなにあったのかと、指摘を仔細に検証すべきなのか。そうして「作品がつまらないんじゃなくて、アンタがつまらない人間になったんだ」という言葉の矛先をへし折って見せれば立派なのか。
フィクションは、もっとパワフルなものだったという印象を私は今も持ち続けている。切り分ける必要も、細部を穿つ必要もなく、私の観念に一撃の強打を加えてくれるものだったはずだ。
中学まで遊んでいたカードゲーム仲間が「卒業」と称してやめていった。あれは子供のものだ、過去のものだと、朋友の裏切りを見た心持ちであった。お前らも早く「卒業」しろよと、優越感に浸りきっているように見えた。
あの悪魔的な微笑を、私は今浮かべようとしている。浮かべまいともしている。フィクションから感動を追体験するのは「卒業」だと、過去の何かを裏切ろうとしている。それを「成長」と合理化しようともしている。
ガツーンとくるようなのが読みたいです。
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